もうひとつの明日

 おとうさんが死んだ。                                    つい先刻、母からいつものように「ごはんですよ」と言われたのだが、まるでその日常      茶飯事になった耳慣れた言葉を聴くほどに、ふわあっと聞いた。それほど、父は私の中で      遠い人になっていたし、むろん形の上では言わずもがなだった。とうに父ではなくなった      一人の男の死が告げられたに過ぎないのだ。                           母はおろおろしていた。「どうしよう・・・どうしたらいい?」と、私の目の中を覗き      込むのだった。それが、今の父の、死に至ってなお置かれている根のない曖昧な状況を象      徴していた。                                        「行こうよ。とうさんやっと帰ってきたのよ、長い旅から・・・」                 母はほんとは今すぐにでも行きたいのだと思う。それぐらいわかってあげなくては、二    1
十八年も面倒をかけているのだから、ばちが当たってしまう。私が、嫌がる母を無理矢理      引っ張って行ったのだ。それでいい。                             「でもねえ・・・おまえ、相手もいることだし、この前見舞いに行ったときのことだって      ・・・おまえ覚えているだろう?」                              「まあね。何よあれ・・・でも、籍は入れてないはずよ。それに、あの人の死に水をとれ      るのは、かあさんだけよ」                                   とは言うものの、俗な心配もあった。いったいどこで誰が葬式を出すのか、それすら定      かではなかったし、私にしても、病院に三日間は休暇を願い出なければならなかったが、      問題はどんな理由をつけるかだった。父の籍は疾うになかったし、同僚の看護婦には父と      は中学のとき死別したとすでに言ってあった。かと言って、急にいいかげんな理由で三日    2
間も休んだとあっては、彼女たちの袋叩きに遭う。日勤、準夜勤、夜勤のサイクルがこと ごとく狂うのだ。病棟がパニックになる。婦長がまた頭を痛めることになるだろう。         そんなことを考えながら、私は婦長に連絡を入れるための受話器のダイヤルをもう回し      ていた。母はと言えば、気丈にも、涙も見せず、せっせと身支度をはじめていた。                               それは、つい一ヶ月ほど前、父が吐血して入院したと聞いて、母と二人あわてふためき      駈けつけたときのことだ。一時は意識もなくしたほどと聞いたが、ベッドの脇には見知ら      ぬ女が陣取っていて、父の口に箸を運ぶ最中だった。その図は、まるで溺愛する病床の息      子をいたわる母に似た光景そのものだった。着るものも着ず駆けつけたというのに、この      鞘当てだ。いつまでたってもこの人の病気は治らない。墓場まで持っていくしかしようの    3
ないものだ。私たちの居場所はなかった。それでも母は、気丈にも堂々とした振る舞いで      私を驚かせた。どこに潜んでいたのだ、こんな母が・・・。                   「最初の妻の野本です。お世話をかけます」                           母はその人に深々と頭を下げて見せた。「最初の」と言う言葉に力が籠められたように      私は聞いたし、それ以上に離婚しても「野本」という姓を捨てていない女であることを、      社交辞令の中にも案外匂わせたかったのではないか。そうは言っても、正式に妻の称号を      得ている人は母しかいないことも事実のはずだけれども・・・。                  当の父はと言えば、虚ろな目をして窓の外を見ていた。いったいいつの間に、またぞろ      こんな女が登場していたのだ。母を捨て、家族を捨て別の女と一緒になって、それで幸せ      になっているかと思ってあきらめもつきかけた頃にはもうその女と別れて一人寂しく暮ら    4
していると風の便りに聞いた。なのにこのざまだ。あのとき、母はぐらりときていたのだ      。ほのかにやり直す夢すら懐いていた。なのに・・・だ。                     父の、新しい?その女は、父の口に付けられた箸を止め、じろりと鋭い眼差しを返すと      目線を上から下へ、まるで私たち親子を値踏みでもするかのようにゆっくりと下げた。そ      れから作り笑いとも照れともつかぬ笑みを浮かべた。                      「ああ、それはどうも・・・わざわざ松江からお見舞いに?・・・」               「どんな具合ですか?」                                    母は不安そうに訊ねる。                                  「熱が上がったり下がったりを繰り返してましてねえ。すぐれないみたいですわ」          母は口を利いたものかどうか迷っているふうだ。こんなときぐらいせめて一歩譲って席    5
ぐらい外せと言いたい。でも口に出しては言えない。言いたいことの十分の一ほども言え      ない心根に私たち親子はなってしまっている。                         「私が中学のとき、父とは死別しました」と、こんな嘘の上に私は人との交際を成り立た      せてきたのだ。言いたいことを言えばボロも出る。彼とだってそうだ。いつ砂上の楼閣は      崩れたっておかしくない。                                   母は父と話すのだろうか?十五年ぶりの再会のはずだ。                    「あ・な・た・」と女が父を促した。なんという肉感的な響き・・・生温かいしとねの匂      いがする。私たち親子が二人してかかってもこの女には勝てないはずだ。              昔から父はそうだった。母性をくすぐると言うか、甘え上手と言うか・・・事実、母だ      って父より四つも年上なのだ。そして、その後父が繰り返した色恋遍歴の相手もみんな年    6
上の女ばかりだった。不思議だと思えることは、父が取り替えてきた女がみんながみんな      どことなく母の面影に似ていると見えてくることだ。この、たぶん、父にとって最後にな      るだろうはずの女にしても・・・母は頑として否定するのだが・・・。              「すまないが、みんな席を外してくれないか」                          父が顔を背けたままそう言った。みんなということは、女と私を意味する。せめて女と      私を同義に扱ってほしくはなかったが、父が母を一義に扱ってくれたことの方が重い。席      を外す前に、訳もわからずに、とっさに私はなぜか父の手を取っていた。             「ごめんなさい。これでも一応看護婦ですから・・・」                      そんな言い訳をして、私は半ば強引に父の脈を取った。か細い血管が力無く脈を拍って      いる。「ひどい不整脈・・・」私は心の中で反芻する。今まで何人とも知れぬ人の肉体を    7
看てきたのだ。蝋燭の炎がどれくらい燃え尽きているかぐらいの察しはつく。           「胸も見せてください・・・」                                 私は、さも事務的な調子でそこまで言って言葉を止めてしまった。あとににつづけるつ もりだった「とうさん」という言葉は裡でささやいた。懐かしい響き・・・もう忘れかけ      ていたその言葉・・・。言い知れぬ熱い情がこみ上げてくる。が、手はそれとは裏腹にい      っそう事務的に父の躰を扱いだしていた。胸元をはだけると、痩せ細った躰に肋骨が浮い      て見えた。枕元の膿盆には吐物の痕がある。たぶん、抗ガン剤の副作用で頻繁に吐き気に      襲われているのだろう。あれだけ外見に気を遣い、髪の手入れには金と時間をかけていた      父の頭は抜け毛が進み、かつての面影はなかった。いつ往ってもおかしくなかった。もう      充分だった。                                      8
「だいじょうぶよ、とうさん。じきに元気になれるわよ」                     そんな気休めめいたことしか言えなかった。それが、父のぬくもりをこの手に感じるこ      とのできた最後だった。                                    私は父から離れた。                                    「だれかつきあってる人でもいるのか?」                            席を外そうとする私を父が呼び止めた。                           「ううん・・・どうして?」                                 「いや、そんなふうに見えた。ちゃんと話しておけ」                      「えっ、なにを」                                      「おれのことだ。こんなおやじがいたということを、ちゃんと話しておけ」          9
 返事はせずに、女と二人部屋を出た。なにが話しておけだ。「私だけはちがう」そう自      分に言い聞かせつづけて今日まで生きてきたのだ。あの日から、私の中で父は死んだのだ      。そして、おばあちゃんはほんとうに死んでしまったのだ。わたしのせいで・・・。                                                       あの頃から、父の素行はおかしかったのだろう。おばあちゃんは、たぶんそのことを気      に病んでいた。その頃、父は広島で単身仕事をしていて、月に一度くらいの割で浜田へ帰      ってきていた。小学六年生の夏休みにおばあちゃんは、私に父について行って夏休みの間      は広島で暮らせと言うのだ。私は絶対いやだと言った。友だちとの約束はいっぱいあった      し、小学校最後の夏休みだ。したいことは山ほどあった。「だからいや」だと正直に言っ      ただけなのに・・・その明くる日におばあちゃんは突然納屋で首をくくったのだった。私   10
は泣きじゃくった。私がいやだと言ったから、おばあちゃんは死んでしまったのだ。私の      心にもう二度と抜けないほどの深いくさびが打ち込まれたのはそのときだ。一週間ほど学      校を休んで再び登校したときのことだ。いきなり先生は、私を教壇の前に立たせて、家族      の死というものに直面してどんな気持ちであったのか、そのときの模様をみんなに話せと      言うのだ。なんという仕打ち。死ぬほどつらい長い時間・・・なにを言ったのかさえ覚え      ていない。先生を嫌いになったのはそれからだ。この事件が父や母にどんな影響を与えた      のか私にはわからない。明くる年の夏になって、父がまた広島に仕事に行くと言ったきり      二度と家には帰ってこなかったことだけが事実として確かなことだ。その日のことはなぜ      かよく覚えている。                                      その日、学校から帰ると(私は中学生になっていた)、家の三和土には子犬が繋がれて   11
いた。私がとても可愛がっていたメリーが死んでしまってから、さびしそうにしていると      いうので父がどこからか連れて帰ってくれたのだと母は言った。子犬は土間に小さくうず      くまりふるえていた。私は抱きかかえ、牛乳を飲ませた。父を少しばかり見直した。少し      は私のことも考えてはくれていたのだ。それから、友達の家に行くという約束を思い出し      た。小遣いが要る。散髪に行っているという父を追いかけた。父はまだ首からすっぽりケ      ープを巻かれて台に座っていた。                               「子犬ありがとう。大事にする」                                首の動かせない父に向かって言った。目元が少し弛んだように見えた。             「そうか、それはよかった」                                 「ともだちのところへ行くの。お小遣いちょうだい」                   12
 私が差し出した手に、父はケープの下からしわくちゃになった千円札を一枚取り出すと      、それを私の手に強く握らせた。いつももらう小遣いにしては多すぎる額だった。父をも      っと見直した。                                       「これがすんだら広島へ行く。かあさんのこと、たのんだぞ」                   私はだまって肯いた。このときも、やはり置かれた状況に正直に反応しただけだ。何も      知らずに・・・。                                       このことを母に話すと 母はショックを受けていた。私の顔をものすごい目で睨みつけ      た。まるで私が父その人ででもあるかのようだった。                       それっきり父は帰らなかった。広島での仕事も辞めていたし、むろんアパートも引き払      っていてもぬけの殻だった。どこへ行ったかさえ長いことわからなかった。         13  これらのことがあってから、私はことさら注意深い女になった。人の言う言葉の背後に      は隠された何かがきっとある。                                 一度だけ、父が駆け落ちしたと思われる相手の女に遭ったことがある。いつぞやの冬休      みに姉と二人、父の所へ遊びに行ったことがあった。父は食事の賄いを近所の小料理屋の      おかみさんに頼んでいたらしい。空いた皿を私に返しに行って来いと言った。私が店に入      ると、カウンターの向こうで洗い物をしていたその人はまじまじと私の顔を見つめて言っ      たものだ。                                         「あんたがさきちゃんね。そうでしょう。そっくりだねえ」                    たまらなくいやだった。女の匂いを肌で感じたからだ。きっとこの人が父の世話をして      いるのだ、きっと・・・何から何まで・・・。                      14
 だれだって、幼心にも、物心ついたときから女はすでに女なのだ。これだけは、誰に躾      けられなくても身に染みついている。皿をカウンターの上に無造作に投げ出すと、私は何      も言わずにその場を逃げ出した。                                                                             「そっくりねえ」                                       病院の待合室で、席を外したその女と二人いやな時間を過ごす羽目になったとき、その      女もまたいきなりそんな口上から切り込んできた。どこまで、この女は父の面倒を看るつ      もりでいるのだろう?それがそのとき私の知りたいすべてだった。すでに、父は生ける屍      に近い躰になりつつある。そのことをこの女は知っているのだろうか?              「どこが似てますか?」                                15
 私は逃げない決心をした。せめて、母を守らなければならない。                「むろん、顔形もあるでしょうけど、それ以上に隠せないものがあるわ。あなたはおいく      つ?」                                           「二十八ですけど」                                     「そう・・・おひとり?」                                  「・・・」そんなことまでこの人に答えなければならないのか。                 「ごめんなさいね。そんなつもりじゃないのよ。あなたが、極端に余所行きしてたから・      ・・いつも相当無理してるんじゃないかって。そんなふうに見えたのよ。きっと若い頃の      あの人もそうなんじゃなかったかと思えてきただけなの」                     女の方が一枚も二枚も上手・・・冷静だった。                     16
「父の躰についてはよくご存知ですか?」                           「いいえ、誰も私には話してくださいませんわ。主治医の先生もあなたの妹さんには話し      ていらっしゃるようですけど・・・私には・・・私はただのお友だちですから・・・」       「父のアパートへは、よく・・・?」終いまでは突っ込めない。                 「私たちには、もう身寄りがないの。今さらどこへ行けますか?あの人も私も一人です。      それがどういうことか、あなたにはわかりますか?」                       そうだった。とどのつまり、みんな一人だったということの再確認に過ぎなかった。母      もそして私も・・・。                                    「おとうさん、あなたのことをとても気にしてらっしゃいますよ。ご自分のことで、結婚      を怖れてるんじゃないかって・・・お姉さんも妹さんも立派な家庭をお持ちだって聞きま   17
した」                                            待ち続けた。私は、もう、気の遠くなるほど、長く・・・父の帰ってくる日を。おばあ      ちゃんは私のせいで死んだ。その三日ほど前に、おばあちゃんは私のために真新しい、私      の好きな水玉模様のワンピースを買ってくれていた。私は、小躍りして喜んで見せた。そ      れは、私を父のもとへ送り出すためのおばあちゃんのはなむけであったのかもしれない。      今でも、私は、それを、一度も袖を通さないまま、おばあちゃんの形見に持っている。そ      れを着ることのできた日はとうとう永遠に来なかった。                     「ごめんごめん」と言いながら妹が小走りに駈けてきて話はそこで腰を折られた。私は妹      に耳打ちすると、主治医に面会を求めた。告知のことも、末期医療のこともある。そのこ      とを、父には無論、母にもその女にも知られたくなかった。父も母ももう充分苦しんでき   18
たはずだった。あとのことは浜田に住む妹にたのむしかない。                                                                 懐かしい潮の香り・・・私は生家に近い小高い丘に立っていた。幼い頃いつもそうした      ように、そこからは私の好きだった港町が見下ろせた。生家の前を歩いて通り過ぎて、こ      こまでやってきた。かつて私がいたはずの台所から夕餉の煙がほのかに漂い、赤ん坊の泣      き叫ぶ声が聞こえてきたと思うと、居間に明かりが点いた。それは、私たちが失ってしま      い、今では手の届きようもない希望の灯とも見えた。生家はすでに人手に渡り、玄関には      見慣れぬ「崎田」と書かれた門札が掲げられていた。                       夕刻になると、たくさんの漁船がいっせいにに漁り火を灯しはじめ、ともづなを解いて      ひとつまたひとつと、誰が号令をかけるわけでもないけれど、まるで隊列を組むようにゆ   19
っくりと岸壁を離れて行く・・・それを眺めているのが好きだった。海が燃えはじめる時      刻・・・私の一番好きな色だ。これだけが・・・今も昔も変わらない。海の緑と黄金色の      落日、波に弾ける光のかけら・・・そして暮れなずむ空に濃紺色に包み込まれる町並み・      ・・その全部が今ゆっくりと時間をかけて渾然一体となり、妖しげな光となって地上に浮      かび上がる。つかの間の、脈絡もなく、まるで夢の中で執り行われたような葬儀を終えた      今、私にも答えを出さなければならない一つの問いがあった。                  「ぼくについてきてくれないか?」                               父の死んだ知らせが妹から届いたその前日、準夜勤務の申し送りを終えたもう零時に近      い頃、当直の速見医師は、私をカンファレンスルームで呼び止めて、そう唐突に言ったの      だった。あと一ヶ月もしたら、先生は京都の大学病院に帰るのだ。もしかしたら、私は心   20
の中でこの言葉をずっと待っていたのかもしれない。私の躰はピクリと反応した。だが、      同時に自分でもびっくりするぐらい怖じ気づいてもいた。彼が非番で、私が準夜明けにな      る深夜は、決まって帰りに彼のアパートへもぐり込み、何度も抱かれて夜を過ごしたこと      があったのに、それがまるでなかったみたいに、一人の男と面と向かっているようだった      。                                             「今、どうしてもお答えしなければいけませんか?」                       自分でも驚く言葉が口を突いて出ていた。というよりも、それはむしろ語調にあった。      彼のほうが驚いたようだった。                                「どうしたの?やけに挑戦的になっちゃって・・・」                       ベッドの中で、何度父のことを話そうと思ったことか・・・いざとなると、いつもその   21
度に、私を遮ってきたこの闇はなんだろう。彼に、引っかかっていることはあった。それ      も問い正せなかった。だがこれは、勇気がないだけのことだった。こちらは目を瞑ろうと      思えばできることだったのかもしれない。                            その三日ほど前、深夜勤務が明けてロッカールームで同僚の由美子と二人、遅くなって      しまった着替えを急いでいたときのことだった。後輩の友恵のいつも要領を得ない長い申      し送りに、これからデートなのだと言っていた由美子はいつになくいらいらを募らせてい      た。荒っぽくストッキングをずりおろしながら、こともなげに言って見せたのだった。       「速見先生ったらね、最近変な体位を要求するのよね。欲求不満なのかしら?」          「えっ、なに?・・・あなたたち、関係あったの?」                       努めて人ごとに、いつもの由美子の憎めない話として、平静を装ったつもりだったが、   22
目にきていたらしい。                                    「なんでもない、なんでもない。ただのフレンド、フ・レ・ン・ド」                それだけ言い置くと、由美子はハンドバックを勢いよく肩に投げ上げ、そそくさと出て      行った。由美子のあけすけな男関係は、同僚の間では有名な話だった。由美子にかかると      男はみな一様に形容された。あれはついて回るものだと・・・。酔うといつも潰れた。男      たちにとって、それは可愛いことなのだろう。彼女が、そのことで男たちを窮地に追い込      むことは、まずないのだから・・・。                              そのとき、ドクターコールが鳴った。                            「ごめん、急患だ。いいよ、急がない。今度ぼくのアパートで返事を聞かせてくれ」         静まり返った夜の外れでサイレンだけが鳴り響いていた。                23
                                               港のそこかしこに青白い明かりが瞬きはじめていた。                      死んでしまったはずの父に、私はなんであんなことをしたのだろう。固く横たえられた      父に死化粧を施すために、服を脱がせ躰を拭きはじめようとしたとき、私は、無我夢中で      父の背中を両手で叩きはじめたのだった。通夜にきていた父の幼なじみの同級生は呆気に      とられて私を見ていた。その視線を感じてやっと我に返った。それから、父の髭を剃り、      薄く紅を引き、ファンデーションを塗った。そのときだった、母がぐらりとスローモーシ      ョンのように私に寄りかかり、次の瞬間どっと泣き崩れたのは・・・。                                                             もうひとつの明日というものが、果たしてあったのだろうか?私が父について行ったと   24
して、それにつづく明日はどんなであったろう。その問いが何の意味も持たないこともよ      くわかっていた。私はここにいる。ここで待ちつづけるしかないのだ。もうひとつの明日      があるとすれば・・・。                                   「粋な人だったねえ・・・」                                  さっきから黙ってばかりいた母がぽつりと言って、丘の突端の崖に向けて歩き出した。      遺骨を両手に抱きかかえた母が、最後の残光を体中に浴びてシルエットになった。それか      らしばらくして日はすっぽりと落ち、とばりが降りた。母も見えなくなった。私は駈け出      していた。                                         「おかあさん!」                                       泣き叫びながら、母の後ろ姿にすがった。母はぴくりとも動かなかった。すでに母の手   25
に父の遺骨はなく、目の前の暗い淵を、父の帰って往った海の、寄せ返す波音ばかりが鳴      り響いていた。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        (1998年5月9日)   26