び わ

内藤美智子

 びわが好きだ。見てよし、食べてまたよし、である。
 びわの実は、なにいろだろう、と考える。けっして、オレンジいろなんかじゃない。 「びわはやっぱりびわいろ」と思い至って、納得する。  つい先ごろまで住んでいた家の庭に、びわの木が一本あった。  冬になると、その枝に花が咲く。びわの花はうすみどりいろで、顔を寄せると、ほのか に甘いにおいがする。  冬枯れの庭に、ひっそりと咲く花が通わせる、甘いにおいに気づいたときの、ときめき を忘れない。  くちかずすくない人の、ためらいがちなささやきに、どこか似ていないかしら、などと ひそかに空想してみるが、なにぶん経験乏しい身のことゆえ、断言できないのは残念であ る。  花が散ったあと、びわの実は葉陰でこっそり育ってゆく。  そして梅雨のころ、ほんのり色づいた、いたずらっぽい顔を、ひょいとのぞかせる。 「まあいつのまに」と、少々おどろかされるが、もうそれからは、毎日毎日、様子をうか がわずにいられない。  ことに、小粒の実が寄り添って、おとなしく雨に打たれているような日は、こちらまで、 柄にもなくもの悲しい気分になったりして、日がな一日、机に頬杖をつき、ぼんやり眺め 暮らしてしまうこともよくあった。  一枝に三個か四個を残し、あとは早めに取り除かないと大きく育たないのだと、教えら れたことがある。  でも、いざそのつもりで木の下に立てば、さて、どれを捨てていいのやら、枝にちょこ んとくっついている青い実の、ひとつひとつがみな惜しい。  仕方なく、自然のままに放っておくから、一枝に七、八個もの実が、窮屈そうに、小さ く実ってしまうのだった。  結局はおなかにおさめるのである。つまらぬ気遣いなど、むしろ笑止千万、と分かって はいるのだけれど。  びわにつけて、幼いころの思い出がある。いまから三十数年もむかし、日原に住んでい たときのことである。  その日にかぎってなぜか、私は窓辺でびわの皮をむいていた。  滴る果汁にてこずりながらも、小さな手には余るほどの、大きなびわをあてがわれたの がうれしく、ていねいに皮をむき、口に入れようとした途端、びわはツルッとすべって、 窓の下の小川に落ちてしまったのだ。  たったそれだけのことなのに、びわの季節がくるたび思い出す。  手からするりと抜けてしまったもののことを、私はいまだに未練がましく、惜しんでい るのだ。  あれから何個のびわを食べたか、数えきれないけれど、あのとき落としたびわほど大き い実には、まだ出逢わないような気がしてならない。  自分の手の大きさが変わったことなど、けろりと忘れているのだから、あきれるが。  小川に落ちたびわの行き先が気になることもある。  すぐにふやけ、朽ちてしまったとは認めたくないものが、私の心のうちにあるようだ。 よくよく思いきりの悪い性分らしい。  小川を流れ、高津川を下り、いまは、どこかの海に漂っている……と、せめて夢みてい たい。  皮をむかれたびわいろのびわが一個、真っ青な海を、プカリプカリとさすらっているの を、見かけた人はいないだろうか。 「ソレハワタシノビワデスヨオ」  はるか、はるか、彼方に向かって大声で叫んでみたいこの衝動は、なんだろう。