弁  当

「収穫の頃」撮影:村上馨(松江市郊外)
瀬本明羅
 「創立60周年記念体育大会」。  会社の廊下に、そう書いた立て看板がもう一ヶ月も前から立てかけてあって、通行の邪 魔をしていた。 不景気風が吹き荒れ、印刷業界の老舗であったY印刷の経営にも大きな翳りが見えてき た。法人所得は長い間、県内でトップを独走していたが、パソコンの普及、広告費の削減、 広告媒体の変貌などという悪条件が重なり、ここ十年の間に中堅の企業といってもいいく らいに凋落していた。  その看板は、そんな職場の空気を和らげようという意味も篭っていた。  社是に、「栄光」という文字が掲げてあるが、その文字が却って社員のモチベーション を下げる結果になっていた。社長は、社是の実践項目に、「……タレント社員にはなるな」 という言葉を取り上げて、中年の社員を皮肉交じりに激励した。そのことが、暫くの間、 社員の間で話の種になった。  「おい、社員のタレント性って必要じゃないの」  ある日、そう言葉を発したのは、今年で五十になる須山係長であった。  すると、話を聞いていた真宮部長が言った。同年で入社していたので、須山とは飲み友 達であった。  「そんなことだから、会社が変な方向に動いていくんだよ」  「それは、どういうことだ。俺が悪くしたように聞こえるじゃないか」  憤慨してそう言った須山の口を塞ぐように真宮が言った。  「タレントと社長は言ってたけど、もともとの言葉は役者だったんだ。もともとは、役 者社員になるなってのが本当だよ」  「……役者社員になるなっていうのは、どういうことだ」  須山係長は、職場であっても、真宮部長には一切敬語を使ったことがなかった。そのこ とが、若い社員の信頼を増す結果になっていた。  「いちいち解説しなくても、君なら分かると思っていたが、だめだね、 やっぱり君は。」  「おい、その言葉は、取り消してくれ。だめ、だめと言われて気持ちがいいものがいる か」  須山係長は、本気になって怒り出した。  すると、真宮部長は、須山に近寄ってきて、耳元で言った。それは、他の社員が聞こう と思えば、きちんと聞こえるような声であった。  「おい、君はいくつだい」  「聞くまでもない。ちょうどじゃないか」。須山が答えた。  「いいか、社長は、役者、いや、タレントのように、若いうちが花じゃいけないって言 ってるんだよ」  須山の肩を叩きながらそう言ったので、彼は、きっとなって立ち上がった。  「じゃ、社長は、俺みたいな人間はリストラするって言ったのだな」  予想外の言葉を聞いたように、真宮部長は、暫く言葉を失っていた。  「今度の体育会は、ひとつ僕たち若い者が盛り上げようじゃないか」  そう言って、その日の昼休みに休憩室で話を切り出したのは、山瀬社員だった。その声 に応じて、比較的若い社員が数名集まってきた。  「打ち上げの会を盛大にやろうじゃないか。不景気風を吹き飛ばすんだ」  「おい、おい、諸経費節減も社の方針だよ」  「親睦会の金は、俺たちのポケットマネーじゃないか」  「しかしさぁ、そうは言っても、経理さんがちゃんと握ってるから、そんなにぱっとは 使えないよ」  そんなやり取りが始まった。  山瀬は、突然言い出した。  「おい、弁当だ。弁当がいい。打ち上げは止めて、豪華な弁当にすればいい」  みんなは、唖然として山瀬を見つめた。  山瀬の提案は、社の上層部では高く評価された。中には、いまどきの若者にはないもの を持っていると言うものもいた。  しかし、若い層の社員には、猛烈な反発をかっていた。じゃ、打ち上げは、俺たちだけ でやろう。ただし、お前は勝手にしろ。そんなことも言われた。  当然のこととして、弁当係のキャップとして準備することになった。体育会の日が近づ いたある日、須山係長が、急に弁当係を手伝わせてくれ、と言い出した。山瀬は、驚いた が、仲間が増えたので、嬉しくなった。中年の好みが 分かるからちょうどいいと思った。  山瀬の提案で、予算を一人1500円として、その範囲内で社員の好みの弁当を数種類 準備することになっていた。  山瀬と須山係長は、三日前、予め予約していた弁当屋に最後の交渉に出かけた。受付の 女性店員に、山瀬はメモを示した。  すると、じっとメモを見つめていた女性店員は、素っ頓狂な声を発した。  「200食全部のおかずの中身を変えるんですか」  「ぜひそうして欲しいんです」。山瀬は落ち着いて言った。  「私からもお願いします」。須山も懇願した。  「店長と相談してきます」  むっとしたような顔をして、店員は奥の方へ入っていった。  しばらくすると、ダークスーツを身に着けた男が、奥から出てきた。  「お請けしましょう」  二人の前に座ると、店長らしき人物は、名刺を差し出した。見ると、店長という肩書き の前に営業部長と書き込んであった。  「こういうオーダーは、初めてなんです。しかし、何か伝わってくるものがありました ので……」。店長は、静かな口調でそう言った。  「お分かりいただけましたか」  須山は、満面に笑みを浮かべながら、そう言った。  「ありがとうございます。これを機会に、これからもお宅の弁当を注文いたしますので」  山瀬も微笑んでいた。  体育会当日がおとずれた。  天気にも恵まれ、ぎくしゃくした雰囲気を掻き消すような楽しい体育会が実現した。山 瀬も須山も、ほっとした気持ちになった。しかし、これは何故だろう、という気持ちが山 瀬の心の片隅にあった。  昼食の時間になった。  弁当係数名は、名簿と首っ引きで、名札のついた弁当を配って回った。  あちこちから、歓声が上がった。  「うわぁ、こりゃすごい」  山瀬は、気になって近くの弁当を覗いてみて、自分のと比べてみた。すると、確かにお かずが違えある。しかし、よく見比べているうちに、ある事実に気が付いた。  それは、蓋であった。ちいさな紙切れがたたんで貼り付けてあり、ぎっしり文字が書い てあった。山瀬は自分の紙を開いてみた。ワープロ文字である。  <山瀬様、あなたの仕事は版下づくりですね。版下は、印刷の要、大切な仕上げの仕事 ですね。大変でしょうが、健康にご留意され……>  市営運動場を出ようとすると、真宮部長が山瀬に声を掛けた。  「やってくれたね。さすが、若い人の発想はいい。社員の仕事をみんな知らせていたん だね」  いつもの癖で、部長は彼の肩をポンと軽く叩いた。  叩かれた山瀬は、それを否定する言葉が即座に出てこなかった。  「社員の仕事がどうして分かったのだ……」  それから、このことが、長らく彼を悩ませることになった。