朝の蝶



瀬本あきら
 年度末に、退職に関する引継ぎ事務が無事済んだ。  「ここと、ここ。引継ぎ文書に判子をお願いします」  後任の総務部長に、そう私は促した。新部長は捺印を済ますと、「長い間お疲れさまで した」と労いの言葉をくれた。随分昔から勤務生活最後の瞬間の厳粛さを思っていたが、 あっけなくその時が過ぎ去った。そうして、文字通りあこがれの無職の生活が始まった。  退職して一番したいことは、空を飛ぶことであった。いや、飛行機に乗ることである。 そうすれば、どこへでも行かれる。妻と二人で初めての海外旅行にも出かけられる。アメ リカで仕事をしている娘にも会いに行かれる。その願いを叶えるためには、私の閉所恐怖 症を克服しなければならないという難しい問題が横たわっていた。 とまれ、さしずめ時間を気にせずゆっくり寝たいものだという願いもあった。ところが、 退職してからは、却ってすっきり安眠できない。ほとんど毎朝三時前後に目が覚める。そ して目覚める直前まで見ていた夢のことを思い出そうとする。大体が過去の失敗や挫折に 関わる悪い夢である。それから、しばらく眠れないので携帯ラジオを点けてイヤホンで聴 く。寝ぼけているので放送の中味は記憶していても断片的である。  数日前、また目が覚めたのでラジオを聴いていた。通信員か誰かが最近の珍しい出来事 についてレポートしていた。私の頭には「アサギマダラ」という蝶の名前と「渡り」とい う言葉が断片的に記憶されていた。春は北上し、秋は南下するらしくその渡りのことをレ ポートしているらしかった。私はぼうっとした意識でその二つの言葉を思い浮かべていた。 蝶が渡りをする、何だか聞いたことがあるな、と思ってイメージを作っていた。すると、 誰の詩だったか忘れたが、「春」という題名の一行詩をふと思い出した。 <てふてふが一匹韃靼(だったん)海峡を渡って行った。>  「アサギマダラ」と「渡り」の二つの言葉が自然に「春」の詩に繋がったのである。韃 靼海峡というのは確か北海道より北の海峡である。春とはいえ寒々としたとした北の海を 一匹の色鮮やかな蝶が飛んでいる。私は頭の中でその姿を追っていた。  そしていつのまにか、蝶は私だ、空を飛びたい気持ちが叶えられた、と思っていた。す ると、私は深い孤独の闇に飲まれていった。私の体は空を飛んでいる。その浮遊感が心地 よかった。そして、何時の間にかまた寝入ってしまった。  こんな日の朝は決まって頭痛がする。アサギマダラ。渡り。頭を抱えて起き上がると、 舌の上で何度もその言葉を転がしてみた。  「海か……」  突然私はそう呟いた。  久しく行ったことがない。水平線を見ていると、心持ち曲線に見える。そして、丸い天 体である地球を思う。すると、今住んでいるところが世界のすべてではない、という思い が病のように湧きあがってきて、虚無的な気持ちになる。また、海にいるのは人魚ではな い、海にいるのは浪ばかり、という誰かの詩を思い出したりする。海の空への限りない呪 いを詠ったものだ。そうかも知れない。海は限りない空に制圧されているのだから。  海を見ていると、そんなことも実感していたたまれない思いがすることもあるけれど、 その朝は少しばかり違うような気分がした。何か大きなものに動かされているような気が した。  海へ行こう。今朝は無性に海が見たくなった。  自由な時間? 自由な時間が一時に襲い掛かると、何かしなければ、何かをと躍起にな るのである。自由は明らかに人を強迫する。  歯磨きをしていると、朝日に輝いている洗面所のガラスに鳥の影が写って消えた。鳥は 海を越えていく。私はすぐさまそう思った。海は春のべた凪だろう。  身支度を整えていると、妻が訝るように、「どこへ?」と言う。  「海だ。散歩してくる」と私。  「散歩と言っても……」  妻がそういうのももっともである。家から海まで三十キロ以上の道のりである。  「変な気を起こさないでね。私たちこれからなんだから……」  「これから?」  「二人でどこへでも……」  「そうだ、そうだ。分かっている」  そう言い残して私は車に乗った。間もなく島根半島突端の日御埼に着いた。駐車場で車 を降りて、海への小道を歩き出してから、出かけるときの妻の言葉を私は反芻した。「変 な気?」。どういう意味だ。海とそれがどんな繋がりを持っているのか。私はただ夕べ見 た夢に出てきた海を確かめたいだけだ。妻は変に気を回す。それも悪い方へ。いや、そう いう勘ぐりをする性癖は、私の性格が長年かかって作りあげたものかも知れない。私は、 妻と希望や夢などを語ったことがあるのか。勤めているときは妻がいつも私に気を遣って いた。これからお互い自由に暮らしたい。しかし、私の自由は制限つきの自由だ。二人で 遠くへ出かけることも出来ない。まるで羽根がぼろぼろになった蝶だ。  そう思っていると、岬の灯台が見えてきた。崖下ではかすかな波音がする。潮の香りが 鼻腔に染み込んできた。遠くでは漁船が沖へ急いでいる。と、不意に白い鳥が岬に続く道 路を横切って松林から海原へ出た。そしてあっという間にどこかへ消えた。朝の海は眩し いほどに白く輝いていた。  私は岩場に立った。水平線がぼやけて見える。思った通りのべた凪だった。波がかすか に白く岸に打ち寄せるのが見えた。海が空を呪う? 私が今見ている海は山陰の海。日本 海。冬は険しい顔つきで岩を噛むが、春の海は穏やかである。その大きな器に私も抱かれ ているような感じである。  私は気持ちがうきうきしてきたので、岩鼻に腰掛けて足をぶらぶらさせた。すると、お いおい、飛び込むのはまだ早い。心の中の誰かがそう囁いた。すると、また頭痛がぶり返 した。私は頭を抱えて崖下を見た。深い渕が物足りなさそうにのたりと広がっていた。足 をぶらぶら。このままずり落ちるかもしれない。自然にそういう感覚が頭をよぎった。足 をぶらぶら。  すると、崖下から私を呼ぶ声がした。  「おーい!」  私は声のする方を目で探した。しかし、人影らしきものは見えなかった。しばらくする と、今来た道から誰かががこちらに走ってくる。男のようだ。私はその姿を目を凝らして 見つめた。人影がしだいに近づき、座っている私にのしかかるように見えた。日焼けした 顔が引きつっていた。  「早まるな!」  私はぎょっとした。そして驚きのあまり、ほんとに落ちそうになった。もしかして、私 は本当に飛び出そうとしていたのかも知れない。そんな突拍子もない感覚にもなった。  「間に合った!」  男はぜいぜい言わせながら私を後ろから抱きかかえた。というより、愛撫といった感じ であった。  「あんたは、まだ若い。これからだ」と男は背後で言った。  私は、その男の腕をほどくと、振り返って改めて男を見上げた。七十台前半と思われた。 土地の漁師かもしれないと思った。私は暫く弁解する気力を失っていた。内心のたりと広 がっている渕を飛び越えられると錯覚していたかもしれないからである。海上の浮遊。こ れは甘美である。しかし、この男は必死に走ってきて、私を抱きかかえてくれた。ありが たいことだ。  「そんな風に見えたんだね」  「当たり前だ!」  「ぶらぶらさせていただけだよ」  「ふざけちゃいけないよ!」  「いやね。頭痛がね」  「頭痛?」  「頭痛が悪いんだよ」  「何を言いたいのだ!」  「いやね、気持ちが和らぐと思ってね。それで、ぶらぶらして……」  「ばかばかしい!」  漁師は怒りながら私を小道まで引っ張っていった。そして、何も言わずに帰っていった。 残された私は海を見つめて、また岩鼻に戻り、足をぶらぶらさせてみた。今の私はこうす るしかない。誰にも理解されなくても。私はそう思って深い渕を見下ろした。しかし、ほ んとに飛んだりしたらどうなるのか。私は次第に正気を取り戻しつつあった。漁師の言葉 通り、私はまだ若いはずだ。これからだ。私は抱きかかえられた時の漁師の体温を改めて 感じた。海を見たいという衝動は、気持ちの底の浮遊感に起因していたかもしれない。 それから土産物品店を歩き回った。どの店も閑散としていた。裏通りに出て、民家の間か ら見え隠れする青い海を見ていた。子どもたちが不思議そうに私を振り返って見た。私は 何しにここへ来たのか?しきりに反問した。  「おーい!」  すると、また私を呼ぶ声がした。さっきの漁師だった。右手に大きな魚をぶらさげてい る。  左手に竹篭を持っていた。ゆったりとした足取りで私に近づくと、笑顔で言った。  「元気出しなよ」  「ありがとう」  漁師は籠に魚を入れると、ソレッと言って私に手渡した。私は思わぬ戴きものをしたの でとまどっていた。ずしりと重かった。中を覗いてみると、イシダイのようだった。  「俺について来てくれないか?」と漁師は少し声を低くして言った。先ほどの笑顔は消 えている。  「見てもらいたいものがある」  「えっ、何ですか?」  「いや、黙ってついて来てくれ」  そう言って、岬の丘の上に向かって登り始めた。私は言われるがまま籠をぶらさげて、 熊笹の路を後からついて登った。  数百メートル行くと、見晴らしのよい所へ出てきた。白い灯台が真下にあり、その遠く に朝の海が広がっている。漁船の小さい影があちこちに見える。  漁師は、その広場の隅の少し窪んだところへまた降りていく。私は何かがまた起こるの ではと思いながらやはりついていった。すると二人は墓地に出た。そこには都合五十くら いの墓石が立っている。漁師はその中の一つの前にしゃがんで、墓石を見つめたまま言っ た。  「俺の家内と息子の墓だ」  「えっ」  「家内も息子もこの日本海で死んだ」  私は、漁師の尋常ではない話し振りのために、言葉が出なくなっていた。  「五年前だ。この沖合いで、家内と息子と三人で漁をやってたとき、隣の爺さんの船が 横波を食らって沈みかけていた。爺さんを助けようと、息子が先ず飛び込んだ。とっさの ことだったので、俺は止めることも出来なかった。で……、二人とも浮き上がって来なか った。」  私はいよいよ黙してしまった。  「それからといもの、家内は私を責め、自分も責めていた。狂ったようになって、あの とき止めなかったことを悔やんでいた。そういう毎日が続いたので、私も家内も疲れ果て てしまった」  「……」  「それから、二人で漁に出る度に、花束を投げてやった。許してくれ。そう祈っても、 どうにもならないことだが。それから、半年後、……家内は崖から身を投げて死んだ。今、 あんたが腰掛けていたあの崖から……。私も何度かあの崖に立って後を追おうと思ったが、 誰かが、止めろ!と言って止めるんだよ。だから、こうして生き延びている……」  「えっ」  私は体が硬直した。  「線香も花も何も持ってきてないが、おまえさん、これも何かの縁だ、どうか墓を拝ん でやってくれ。お願いだ」  私は籠を傍に置いて、言われるがままひざまずいて墓石に向かった。二本の塔婆に戒名 が記してあった。私は般若心経を唱え、その戒名を読み上げながら供養を終えた。供養を 済ますと、早くして亡くなった両親や弟のことが思い出され、漁師が何だか他人でないよ うな心地になってきた。  「ありがとう。すまないね。そんなことまでして貰って」  漁師は頭を下げた。  「いや、これもご縁です。私こそ感謝しています」  二人は並んで沖の白い海を眺めた。そして、私は再び籠を持った。ずしりと重く感じら れた。  家に着いたときは、昼時だった。  「今までなにしてたの?」  玄関で出迎えた妻が尋ねた。  「ぶらぶらをやってきた」  「ぶらぶらって?」  「足をぶらぶらさせてた」  「どこで?」  「岩鼻に腰掛けて」  「ええっ!」  そう言うと、妻の顔が見る見る青ざめた。  「蝶だよ。アサギマダラ」  「何、それ?」  「分からないならしかたがない」  「で、この魚は?」と妻は竹篭を手に取って言った。  「漁師に貰った」  「どうして?」  私は答えに窮した。いくら詳しく説明しても分かって貰えないことだと思ったからであ る。私は妻にとっても、私にとっても、良いことをしたのではなかったかもしれないとも 思った。私は、改めて籠の中のイシダイを確かめた。いい色をしていた。私は、妻の手か ら竹篭を取って、魚を数回持ち上げてみた。この重さ。漁師の笑顔。私は生きている。  部屋に入ると、すぐさまアサギマダラの姿を見たいと思った。百科事典で調べると、ア ゲハチョウによく似た模様がある美しい蝶だった。模様の部分はほとんどが水色で、下の 部分が鮮やかな紅色だった。私は死んで生まれ変わってもこんな素晴らしい蝶にはとても なれないと思った。  私はそういうことがあってから、ぶらぶらだけはもう決してすまいと思ったのである。                                      (了)