ある雨の日



                    瀬本あきら

初冬のある日 久しぶりの夫婦の小旅行 車ならなんとか…… と思って出かけた 国道九号をひたすらに東へ 雨 雨 雨…… 初時雨 県境を越え  鳥取に出た しばらく繁華な街並が続いていたが すっと人家が途絶え   くすんだ日本海が だぼだぼと広がっている この辺で休もうか もう気持ちが先に進まない 遠出なんて  どだい私には冒険なんだ 早く  この閉ざされた車内から出たい しかし  喫茶店が見当たらない 廃業した店舗が二つ並んでいた それを横目で見て わびしい気持ちになった ──こんな所で商売は成り立たないのかなあ 私はそう言った ──ああ  有った  有った 助かった 私は吸い込まれるように ハンドルを左に切った 何と  ここも廃業寸前だ 周りには潤いらしきものがない 室内は煤けて手入れの跡がない 経営者らしき初老の女と客のじいさんが カウンター越しに世間話をしていた 出されたコーヒーとトースト 受け皿に雫がニ三滴 トーストは切り口がでこぼこしている ああ  この店にしてこの商品か 私はがっかりした しかし  椅子に腰掛けると不思議と落ち着いた 人は疲れたら腰掛けるに限る 私は入り口近くの席に 母親と三四歳の男の子がいることに 初めて気づいた 入るときには少しも眼に入らなかった あまりにも静かだったから 親子は無言のまま食事をしていた 私は妻と話をしながら ちらちらと親子を盗み見していた 子どもも母親も何も話さない 母親は地味な服装だった 子どもはパスタか何かをフォークでひたすら食べている 母親が自分のスプーンで ときどき何かを子どもの口許に運んでやっていた ほんとに実の親子だろうか そうではないかも知れない とすると…… 私はいろいろな二人の運命を想像していた 長い食事が終わったようだった すると 母親らしき女は ハンドバッグを膝の上に置くと 中から白いハンカチを取り出した そして  男の子の口を丁寧に拭いてやった それから  自分の口にそっと当て すばやくハンカチをしまった パチンと蓋を閉める音がした と同時に  ほっとしたような安らぎの色が 女の顔に差してきた 私はその仔細を見ていた そして  何故だか涙が滲んできた 親子だ  親子だ 間違いない 私には  その子どもの唇の感触が伝わってきた 儀式のようなその女の振る舞い 間違いない 実の母親だ 私は店を出て行く二人の後ろ姿が かすんで見えなくなっていた 香水のような ほのかな匂いが漂ってきた 遠いあの日のあの匂い…… さあ  また車に乗ろう 外はやはり雨が音を立てて降り続いていた